明けましておめでとうございます。

2020年は、令和という元号に変わってから初めて、年の切り替えを迎える年となりました。

さて、2019年は令和元年ということもあり、いろいろと生まれるもの、平成の膿を吐き出すものが出てきたような気がします。
かつて、昭和から平成に変わるときも、戦争から平和の歴史に切り替わっていった感覚を覚えたものでした。しかし、平成もしばらく過ぎてくると、その平和から戦争の歴史に逆戻りをしてしまったように思われます。それも、その戦争の形は、物理的に殺しあう形(有形)から、目に見えない形で戦う形(無形)です。(この変換のキーワードは、有形財から無形財への変換です。大切なことは、無形+財ということです。無形物に価値を生み出す、そこには、無形という目に見えないものに価値を感じるための工夫を加えることになります。)それは、経済戦争や情報戦争、と言った形で現れてきます。それも、世界規模まで拡がり、かつての世界大戦は、無形の形で行われていきます。結果として、経済一流、政治三流と言われた日本社会は、その無形戦争の中で、敗戦を強いられ、一流であった経済さえも、搾取され、疲弊していく様子が見えてきました。(政治は、富の再配分の仕組みを作るべきでしたが、残念ながら目先の利益に負け、私利私欲に走ってしまったようです。)しかし、賢い日本人は、この流れを脱却すべく、元号の変更において、生前譲位を敢行したと思っています。
結果、この流れに乗る者が増えてきました。令和になっての話題のひとつに、令和婚があります。この令和婚の特徴のひとつに、この人は結婚しないだろうなー、と思われていた人たちが結婚したことです。かく言う私もその一人で、私も周囲からはもう結婚しないだろう、と思われていました。しかし、縁あって、令和元年5月1日に結婚しました。その当時の私は、まさかこんな令和婚の形が出てこようとは思ってもみなかったものです。まさに、平成から令和への切り替えが起こしたことなんだろう、と思いました。
また、膿に関しても、平成時代は安泰と思われていた、吉本興業やジャニーズ事務所など、芸能界の大手がその勢いのまま進めてきたことにストップをかける事態に陥っていきました。その流れは、芸能界にとどまらず、教育界や政界にまで及び始めています。教育界は、ベネッセの不祥事が陰ながら処理されている状況です。政界は、桜を見る会に代表されるような、私利私欲に走った、いわゆる傲りから生じる状態です。この傲りから生み出された社会構造の膿が噴出してきたような年となってきたような気がします。
その流れを継承すべく、2020年が始まっていきます。どうやら、令和の時代は、かつての流れを変えるべく動き出す時代となっていくように思います。下記に3点ほど、2020年変わらなければいけないこと、変わってないこと、についての考えを書かせていただきます。
そして、その変わってないことへのメスを入れるべく、当社会デザイン協会は本格的に動き出していく年にしていきたい、と思います。ぜひ、これからも皆様のお力添えをいただきながら当協会の活動についてご指導ご鞭撻を賜りたい、という初心を述べさせていただきまして、新年のご挨拶とさせていただきます。

教育ー特に高等教育機関。
大学は、新しいものを生み出す研究者という職業に就く者を生み出す教育機関。(これからは、無形財を生み出す教育になっていく。)したがって、研究と、その研究者を生み出すための教育の両輪が必要になる。それ以外、社会の仕事に従事する職業人を生み出すには、専門学校や専門職大学といった形の教育機関で技術を学ぶ教育機関を出るようにすればよい。どうやら、ヨーロッパを中心とした世界の動き(アメリカは除く)は、この動き(NQF)にあるようである。(日本は、アメリカ型の教育制度であり、ここからの変化を断行しなければならない。)日本で行われている大学入試改革は、このNQFの流れの中で行われるべきである。

ビジネスモデルー足りなかったら、人で賄う、やり方からの脱却。
科学技術が未熟な社会では、足りなかったら人手でまかなう方法の方が、早いし、正確であった。戦後の日本は、その方法で世界市場を席巻してきた。しかし、その早さや正確さについて、科学技術が追い付いてきたとき、日本はいまだに、その世界(足りなかったら人で賄えばいいという考えの世界)に変換できない状況が考えられる。それは、遊び=怠け者、という構図に流された状態であり、遊び=工夫、という構図から離れた状態から生まれてくるものだと考えられる。なぜなら江戸以前の日本では、もったいない思想を含め、遊び=工夫 の社会構図の中で、無形財としてのさまざまな日本文化が形成されてきた。しかし、教育制度を含め、兵隊を作ることに専念してしまった日本社会は、工夫して考えることよりも規律を守るや命令に従うことを重視するようになってしまった。この構図を変えていかなければならない。働き方改革は、仕事の時間を単に減らせばいい、ということではなく、減らした分、考える時間に充てるべきである。趣味の延長線上の副業でもよし、語弊なく言わせてもらえば、仕事は遊びの中から生まれる(起業家の頭の中は、社会に対する不便さを解消しようとするところから生まれると思っているからであるが。)のである。機械ができることは、どんどん機械に任せていけばよい。かつての私は、これからは高効率化社会になっていく、と言っていたが、それは、今の仕事の形が、効率化を求めるあまりに、ほぼ機械に置き換えることができる仕事ばかりだからである。しかし、人類の文明は、そんなに単純なものではない。安全、安心な過ごしやすい社会を作っていこうとしたら、まだまだ不十分であり、そのためには、文系的教養と理系的科学技術の理解が必要であり、そのための教育機関の制定が必要になるのだと思う。そして、その構図を理解しながら、働くことができ生活できる、そんな社会デザインにしていくべきである。

性差別ー女性を増やす、という考え方からの脱却(性を意識すること自体性差別。性別に関係なく、業務で区切ることにシフトすべきである。)
以前から言っていることであるが、人間は、目的と手段を履き違えやすい。特に、考えることを放棄させられた真面目な日本人はこの傾向が強く出る。この性差別の問題が、まさにこの傾向が顕著に現れていると思われる。ビジネスモデルのくだりでも書いたが、仕事は、生活に密着したところから生まれてくる。その安心、安全な過ごしやすい社会は、生活の中の工夫から発展していく。この考えをベースに考えていくと、女性が社会の中へ進出していく意味が生まれてくる。しかし、ビジネスモデルは今のままで、女性の社会進出が増えた社会は、豊かな社会になっているという研究結果だけを受け、根本を理解せずに手段だけを推し進める、今の日本社会は間違った方向に向かっているとしか思えない。そもそも、男性だからとか女性だから、という区別による業務や起業や支援の在り方は、性差別を助長しているとしか思えない。今の社会構造の形のまま、女性だから支援、の形をとっていると、男性社会におもねる女性ばかりになり、まったくもって仕事の業務がよくなる状態はできないのだと思う。この目的と手段、の履き違えに気付き、本当の意味での性差別を払拭していかなければ、どんどん衰退していく日本になっていくことを危惧している。

社会デザイン協会 鈴木秀顕